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東峰窯 × PRODUCTS STORE
たっぷりな座談会

01 二度の縁から生まれた、東峰窯と外波山さんの絆
02 割烹食器で大事にしていた軸が、ものづくりのスピリットとなる
03 今やっと、スタートラインに立っているという感覚

<今回の参加者>
東峰窯 代表取締役 塚本 六美(つかもと ろくみ)
東峰窯 専務取締役・プロダクトデザイナー 外波山 央理(とばやま ひろまさ)
株式会社ユープロダクツ 代表取締役 平子宗介
PRODUCTS STORE 店長 長山晶子
インタビュアー・編集者 笹田理恵

撮影 加藤美岬

岐阜県土岐市の中でも有数の窯業地・駄知。創業から70有余年、業務用和食器を製造するメーカーとしてものづくりを続けてきた「東峰窯(とうほうがま)」は、量産の技術が進む中、あえて人の手をかけて技術を残すことに取り組み、後世にも残る使いやすい形とデザインを追求した器を提案しています。

柔軟でありながらも、ものづくりの「芯」がぶれることなく器を生み出す姿勢について塚本六美代表とプロダクトデザインを担う外波山央理さんに取材しました。「外波山さんがいなかったら、今の東峰窯はなかった」と言い切るほど、一番大切なのは「人」だと語る塚本代表。東峰窯の高い品質と美しい器はもちろん、メーカーとしてあり方や働き方、産地の将来について話していただきました。

【東峰窯 × PRODUCTS STORE
たっぷりな座談会】
01

二度の縁から生まれた、東峰窯と外波山さんの絆

平子 : 東峰窯の専務取締役でありプロダクトデザインを手掛ける外波山さんのように、長く窯元に勤めて、同族ではない方でも会社の経営に主体的に関わる人がものすごく重要な存在なんじゃないかと思っています。

外波山 : そういう人がいても辞めていってしまうパターンは多いですよね。……と言いつつ、僕も一度辞めているので。

平子 : 同じ会社にずっといるより、一度離れて戻るパターンがあってもいいと思うんです。身内しか経営状況を把握していない会社も多い中、社外の人を経営層に迎えていくためには会社としての包容力も必要だと思います。

外波山さんが東峰窯に入社した経緯は?

外波山 : 意匠研(多治見市意匠研究所)を卒業してから入りました。ただ、僕は意匠研の採用枠じゃないんです。たまたま高田(多治見市高田地区、高田焼の産地でもある)にある工業組合の穴釜を焚く作業に参加していて、東峰窯のトンネル窯を壊した時に出たレンガをもらいに高田の人とここに来て。そこで「就職先は決まっているのか」と社長に声をかけてもらって入社しました。

平子 : 塚本社長は、ピンと来て外波山さんに声かけられたんですか?

塚本社長(以下、塚本) : 真面目そうだったし、絶対これから新しいデザインが必要だと思っていたからね。もし今、外波山の作ったラインナップがなかったらと考えるとゾッとする。

外波山さんがデザインするプロダクトを作り始めたことから方向転換されたんですか?

塚本 : うちは元々、主に割烹で使われる業務用和食器を作っていて、銅版を貼るもの(紙に刷られた文様を器に転写する絵付け)が主体だった。今までの手順とは違う新しい仕事を入れるのはすごく抵抗があったけれど、ほんとに仕事がなくなったもんだからやれただけ。今までのものを押しのけてまでは始められなかったと思う。

長山 : 外波山さんは、元々は作家志向だったんですか

外波山 : うーん、「絶対作家になるぞ」というタイプではなかったとは思うんですけど。それでも毎日ろくろを挽いて、陶芸家さんの窯場で夜は作業させてもらっていました。ここに入ってからも個人名でデパートの企画展に参加させてもらったり、手作りのものを最初はやってました。

平子 : 支障のない範囲で構わないのですが、外波山さんが一度、会社を離れた理由は何だったんですか?

外波山 : 他を知らなかったんですよね。学生時代はアルバイトをしていたぐらいで、社会人になってここにお世話になった。他を知らないと比較ができないので他が見たくなってしまう。元々、料理が好きだったのもあったし、自分の家も商売していたので、「自分で何かやってみたい」という気持ちで、自分の作った器で料理を出す飲食店を地元・浜松で始めました。

自分の「やってみたかった店」を始められたんですね。

外波山 : 僕は料理の修行したわけでもないですし、案の定そんなに甘くない。自分が1人になってやるということは、作家さんも同じだと思うんですが、全て自分の考えで動ける分、全て自分が責任を背負うことになる。逆にそこで自由に動けなくなってしまった。好きなこともだんだん楽しくなくなって、苦しくなるんですよね。お店を続けるためにアルバイトしたり。そうするとアルバイトの方が楽になっちゃう。

平子 : なるほど。

外波山 : そうすると、本来やりたかったことが実際何なのかがぶれてしまった。3年は続けようと決めていたので、3年でお店を閉めました。そこから一体何がやれるんだろうと思いましたね。浜松には窯業はないし、実家に入る予定もない。そうするとやりたいこと、やれることはかなり限られる。電気工事の仕事をしたり、食品の問屋さんで2トントラックの冷凍車に乗って配送と営業の仕事をしたり、いろいろとやっていましたね。もちろんそれぞれ楽しさは見つけられたんですけど、これは僕が今までやりたかったことではないし、僕じゃなくてもいいんじゃないかという思いがある中で、「どうだ、また戻ってこないか」と社長に声をかけてもらった。辞めた手前、自分から東峰窯に戻るというわけにはいかなかったので、声をかけてもらったおかげで戻ってきました。

塚本 : うちはね、本当は外波山を引き止めたかったんですよ。あの時にもう一度呼ばなかったら、もう今の東峰窯はなかったわ。

外波山 : 僕も何やってたか分からないですね。

【東峰窯 × PRODUCTS STORE
たっぷりな座談会】
02

割烹食器で大事にしていた軸が、ものづくりのスピリットとなる

平子 : このインタビューの趣旨としては、作り手さんの背景を発信していくことですが、作家さんを中心とした展示に合わせたストーリーだけではなく、お取引させてもらっているメーカーさんの現在地やどんな未来を描いてらっしゃるかをお聞きしたいと思っています。普段の実務の中では掘り下げた話をすることも少ないので、こういう機会を作って、僕らもどうしたら東峰窯さんの未来に貢献できる仕事ができるかを考えるチャンスにできればと思っています。

塚本 : 将来を語るのは、なかなか難しい部分がありますね。

平子 : 僕らも産地の課題について各所で伺っています。今までも原料や外注の技術が「なくなる」という話は聞いていたんですけど、どこかで当事者意識が希薄でした。窯元やメーカーさんが頑張って何とかしてくれるんじゃないかと思うところもあって。でも、我々も産地でできないことが増えていく現状を漫然と受け入れていては商社として未来がない、という思いもあります。塚本社長が感じている課題は何ですか?

塚本 : 我々は、まず人をどうやって確保するか。「ほんなもん簡単やないか。給料を倍にすれば人は来るぞ」と言われるけど、きちんと経営を回して、その中でしっかり従業員の皆さんに払えるようにならないと人は集まらない。いま、外波山がいいものを作ってくれて、オリジナル商品が売れてきているので、OEMと比べたら多少利幅が取れている。そういった動きの中で少しずつ給料を上げる工夫をしているんです。あとは、最近80代のOGをリクルートして復帰してもらったけど、その方はいまお孫さんと一緒に働いている。

平子 : すごい、素敵な話ですね!

塚本 : 復帰した日からもうベテランだから、若い人よりもたくさんの作業ができるんです。

外波山 : 体が覚えているんですよね。

今はどれくらいの従業員さんがいらっしゃるんですか?

塚本 : うちは今30人ぐらいですね。昔は100人以上の従業員いました。労働力を確保するために自社の託児所もあって、けっこう先進的だったんですよ。

外波山 : さっき話題に出てきたお孫さんのお母さんは、うちの託児所で育ったんですよ。

塚本 : そのお孫さんが働きに来てくれるってことは、おばあちゃんやお母さんからうちの悪い評判を聞いてないからだと思う。お孫さんとおばあちゃんが一緒に働いてくれるなんて過去にはなかった。うれしいですよ。

平子 : ちなみに、社長は何代目ですか?

塚本 : 最初は共同経営だったので社長としては5代目です。ここは元々、軍事工場で飛行機部品を作っていたんです。戦後は進駐軍のロッカーやカバンを作っていて、2年ぐらい経ってから陶磁器を作り出した。さらに江戸時代にさかのぼると塚本家も窯焼きをやっていたんです。世の中が変わって、明治時代でこの業界にどっと参入してきた時に窯焼きをやめたんですが、実は窯人のルーツがあるんですよね。

社長が東峰窯を継がれたのはおいくつの時ですか?

塚本 : 会社に入ったのは26歳。ずっと会社を継げと言われていたし、僕は都会に住む気は一切なかったので。東京の大学へ行って大企業からも声はかかったんですけど、東京で働く気はこれっぽっちもなかったですね。まっすぐこちらへ帰ってくるつもりだったので。

平子 : 僕は土岐から東京に出たら楽しすぎて「絶対に帰らない!」と思っていました。笑

塚本 : いや、逆よ。僕は体の芯に「魚釣り」が入っているから、魚の釣れないところは考えられない!岐阜の田舎が絶対にいい。全然迷いはなくて、会社に入った時も「やっと帰ってきたな」と思った。この街は僕らが若い頃はもっと元気だったし、陶器の街という誇りや「僕には窯人のDNAが流れている」というプライドがあった。昔の駄知は本当に活気があって、昼間の人口は15,000人ぐらいあったと思うんですよ。

平子 : そうなんですか!?考えられない……!

塚本 : 江戸時代の初期、駄知には燃料と土があって風向きも良く、いい斜面があるから窯人が入ってきた。明治になると岐阜県の近隣から陶磁器生産に参入して、戦後は九州からの集団就職もあった。その三段階で駄知に人が入ってきた時代があって、いまは初めて駄知から人が減り続けている。

長山 : 昔は駄知に駅が2つあったんですよね。

塚本 : そう、50年前でも駄知は元気だったね。映画館も2つあったし、パチンコ屋は5軒。料理屋さんがあって、朝に本町の通りに行くと芸者さんが三味線の練習していた。当時は、土岐市の経済を牛耳るぐらいの勢いがありましたよね。

平子 : ずっと競合他社がひしめく中でものづくりを続けて、いまの現在地がありますよね。例えば25年後を考えた時に、戦っていく方法はどのように考えていらっしゃいますか?

塚本 : うちは昔から割烹食器に定評があり、丈夫なものを作ってつないできた。でも、器の使い方は変わった。昔は皿から丼、とっくりでも一式で揃える食器が多かったし、結婚式へ行くと、うちの同じ柄の器で全部出てきていたんですよ。今はそういう使い方をしなくなり、単品で勝負する時代。ずっと単品を作っていたところはコストを下げられるから、品質は負けなくても値段では勝てないんですよね。

時代の変化によって、作る物を変えざるをえなかったんですね。

塚本 : だからこそ、やっぱりうちで働きたいと思う人が来るような「もの」を作らなきゃいけない。日本で1番安いもの作るのではなくて、いいもの作って「自分もこういうものを作ってみたい」と思う人が集まってほしい。外波ちゃんに形状や釉薬からいろいろ勉強してもらって、やっと新しいものができたんですよ。今は昔の商品とうまく入れ替わりつつあるところなので、これを今後伸ばしていこうと。

平子 : 素晴らしいことですね。

塚本 : ただ、ずっと言っていることは昔から作っている割烹食器と一緒で、まず品質と丈夫さ。うちで昔から定評のあった部分だけは捨てちゃいけないよ、と。新しい器でも同じスピリットで作る。

外波山 : ジャンルや売り先が変わっても、ものに対する思いの「芯」が通っている。例えば僕が新しい形状を提案した時に、自分で少しでも納得いっていないところは社長に一発で指摘されるんですよ。社長が好きなものと僕の好きなものが違ったとしても、いい・悪いの軸がしっかりある。それが僕たちメーカーのもの作りに必要なことですよね。それがぶれると安価なものや妥協したものができていく。そこはうちが代々守ってきた大事なことだと思います。

塚本 : 今でも簡単に割れるようなものは作らない。うちのものは40年ぐらい現役で働いている食器がいっぱいありますもん。学生時代に行っていた居酒屋でまだ出てきますよ。もうええかげん新しいものに替えてよ!って言うけど。笑 うれしいことですよね。

平子 : これからの戦略で「人」という回答が返ってくること自体が、東峰窯さんの企業姿勢が表れていると思います。

塚本 : 3年前なら同じことを言ったかどうか分からんよ。でも、今は切実に思う。やっぱり縁なんですよ。昔、知り合いに頼まれて入ってもらった従業員でも、今ではいないと困るという人がたくさんいる。正直な話、忙しくない時期に人助けのつもりで入れたけど、今はこちらが助けてもらっている。従業員さんに倍返ししてもらっているんです。

外波山 : 最初は大丈夫かなと心配になった人でも、なぜか変身するんですよね。たとえ時間がかかったとしても。

きっと東峰窯の働く環境や社風がいいからですよね。

外波山 : そうですね。あまり人と比べたり「これができないからダメ」だという社風じゃないですね。まずはやれることをやってもらおう、という。

塚本 : 社長が釣りに行ったり遊んでばっかしてるもんで、他の人がやらないかんわけですよ。笑

平子 : 僕は塚本社長を目指してるんですよ!まずは、僕も釣りを始めようかな。笑

塚本 : 魚釣りなら、あと3時間は話せる。笑

【東峰窯 × PRODUCTS STORE
たっぷりな座談会】
03

今やっと、スタートラインに立っているという感覚

外波山さんが商品開発をするときに大事にしていることは何ですか?

外波山 : カタログを見ると分かりますが、うちは形に名前がついているんです。10年以上同じ形状を使っていても、時代にあった色や柄に再び名前がつくので非常に難解になりますが、それぐらい「形」には執着がある。ものづくりのスタートは何色にするのか、どんな柄が流行っているのか、の前にまず形ですね。あまり特異なものを作るとすぐ飽きるので、長くスタンダードで使えるもというのが第一のテーマで作っていますね。

塚本 : 彼はセンスがいいので、まず形状のシェイプがいい。

外波山 : あとは、あまり周りを気にしないこと。コロナ禍で雑貨系の器が流行って家庭需要が増えましたが、あくまで華のある器を作りたい。そこはぶれない。

平子 : このオーバルプレートがものすごく売れているじゃないですか。バイヤーから「何故こんなに売れるの?」と聞かれるくらい。

外波山 : 実はこれを作ったのは何年も前で、全く売れなかったんです。海外の人が来ると手に取るけれど、国内はユープロさんが初めてぐらい。今は売り場の方や使う方ともやり取りができるようになったのでやっと商品が動くようになりました。

外波山さんがインスピレーションの元にしているものはありますか?

外波山 : 僕は会社から自由にさせてもらっていた時期が長かったので、東京の店などにかなり足を運んでいました。よく「趣味は何なの?」と聞かれるけれど、ゴルフや釣りもやらないし、具体的な趣味ってないんですよ。よくよく考えれば「生活全体が趣味」で、ものが好きだし、コーヒー一杯を淹れるのにもこだわりがある。生活する時間を楽しむことが趣味なんです。だから、東京へ出張に行かせてもらった時も、どんなものが動いているのかと陶器を見るばかりではなくて、世の中の色だったり、どういう世代に購買意欲があるのかというのも含めて、常に興味津々でうろうろしている。そういう感覚を元に作った商品だから、使い手の人たちが見た時に「これだよね」と気付いてくれるのかなと思っています。

長山 : 普段、どんな店を見ているんですか?

外波山 : よく同業の人からも「どうやって企画してるの?」とか「東京に行ったらどこ見るの?」と言われるんですけど、あえて見に行くところはみんなも見ているはず。そうじゃなく興味があるからぐるぐる回っているだけ。東京に行けないコロナの時期でも月に数回は、名古屋を意味なくうろうろしてますし。元々、興味があるからこそ意識なく吸収しているものが形に現れているのかな、とは思います。

ものが好きだからこそ、自然に吸収できているんですね。

外波山 : 逆に、具体的に「これ」という商品があるとズバリを作っちゃうので。現物のサンプルは買わないというルールがあります。インスタも近場のものは見ない。たとえ自分が作った後に知ったとしても、似たものがあったらがっかりしてしまう。あれもこれもと見ながら自分の中で処理したものを作る。

平子 : 他社の器を買ってきて模倣をベースに商品開発している会社も多いと思います。

外波山 : コピーをすればすぐに作れるので楽だと思います。それでいいと思える人たちは、それでいいんじゃないかな。僕らもコピーはできますけど、そんなつまらないことはやらない。やりたくないというだけで。

平子 : 業界が衰退する要因がそこに詰まっていると思うんですよね。ものづくりへの情熱が欠けているから、ものづくりの背景が確立されず、どうしても何かのオマージュになっていってしまう。

外波山 : コピーをすれば価格が下がってクオリティも劣化するし、どんどん画質が荒くなっていくので何もいいことがない。元の商品を作った人にも、コピーだと知らず本物だと思って買っている人たちにも失礼。作り手の責任として、それではいけない。でも、そんな状況も含めて他社のコピー商品のことは考えない。根本的な思考が違うので考えてもしょうがない。それよりも僕たちが何を作るかを考えないと。

塚本 : 例えば、オーバルプレートはコピーできないんですよ。「ベタハマ」(高台が全くなく底が平らな状態)は、めちゃくちゃ手間かかるから。ここまで仕上がるのに15年ぐらいかかったかな。

どんなところに手間がかかるんですか?

外波山 : 形状はもちろんですが、焼く時に棚板にくっつかないように塗った釉薬を剥がさないといけない。

塚本 : 剥がす作業が大変なんです。これが売れ出した時にコピーがどんどん出回ったけれど、裏返した時に高台があるのは他社の商品。高台があれば釉薬を剥がすのも簡単ですし。うちは底に手が入るギリギリなくらい限りなくフラットな形状にしています。

平子 : そのくらい手間がかかっているんですよね。これが売れているということは、お客さんはよく見ているなと思います。

簡単には真似できない手間と技術が詰まっている皿なんですね。

塚本 : ずっと大事にしてきた技術でコピーできないものを作っている。あと、我々の業界には外波山のようにプロダクトデザイナーと言える人がいるメーカーは少ないと思う。

平子 : 確かに少ないですよね。

塚本 : 僕も会社に入って器を勉強する中で志野や織部、洋陶でもマイセンだとか素晴らしいものと比較してうちの器がつまらなく見える時があった。作りたいと思うものと、仕事として食っていくものは別かなと割り切れるまでにすごく時間がかかった。

長山 : そうだったんですね。

塚本 : いま作っているものは外波山がデザインしたけれど、やっと僕の代になってできたプロダクトだぞ、と誇りに思っている。ずっと漠然と何かやりたかった。そういうものができてきているような気がして、やっとスタートラインに立てたかな、という気がしているんです。

平子 : これだけ歴史のある中でも、今ようやくその意識になれたんですね。

塚本 : うちで作る器がつまらないものに見えた時代はあったけど、40年もうちの食器を使ってくれている小さな食堂が今でもあるということも誇りですね。

平子 : 僕らも扱っている商品は作家ものからプロダクトまで幅広いですが、それぞれに良さがある。40年使い続けられる器の機能美も含め、僕たちはものの価値を本質的に伝えていかないといけない仕事だと改めて思います。

塚本 : 女子会でも料理だけの話だけじゃなくて「この器もいいね」と料理の話と同じぐらい器の話で盛り上がってくれるぐらいのものを作りたいですね。一つの夢としては日本だけじゃなくて海外でも認めてもらいたい。いずれ自分は死んでも、誰かが愛でてくれる食器は残るからね。