兵山窯 × PRODUCTS STORE
たっぷりな座談会
<今回の参加者>
兵山窯 羽柴 喜和子・兵哉・眞由
株式会社ユープロダクツ 代表取締役 平子宗介
PRODUCTS STORE店長 長山晶子
インタビュアー・編集者 笹田理恵
岐阜県土岐市の窯元「兵山窯(ひょうざんがま)」。歴史をさかのぼると織田信長に器を献上し、その技を讃えられて羽柴の姓をもらった、というすごいエピソードが出てくる窯元です。現在は、数年前に亡くなられた3代目 羽柴兵衛さんの妻・喜和子さんと長男の兵哉(ひょうや)さん・眞由さん夫妻、次男の泰宏さんで作陶されています。
兵山窯の代表作・錆(さび)かいらぎ※1 やしのぎ・市松の器など、日常に馴染み、使いやすい器づくりを続けていますが、時代の流れとともに磁器から土ものに移行した時期もあったそうです。兵山窯の歴史や錆かいらぎ誕生ストーリー、手間を一切惜しまないものづくりの姿勢について伺いました。
※1 かいらぎ……器を焼くときに生じる釉薬(ゆうやく)の縮みが残った独特な表現。表面の模様が梅花皮(かいらぎ=エイ・サメなどの皮を使って刀や剣などに施していた装飾)に似ていることが由来。錆かいらぎは兵山窯の失敗から生まれたロングセラー
たっぷりな座談会】
手間をかけるのは当たり前。それは絶対、惜しまない
さかのぼると織田信長に献上したという歴史もありますが、先祖もやきものをやっていたのでしょうか?
羽柴喜和子(以下、喜和子) : 歴史をたどると先祖も陶工だったという話です。私がここへ嫁いで来たときには家系図の巻物が残っていたけど、どこにやったかな……。
羽柴兵哉(以下、兵哉) : たしかに見たことあるね。
喜和子 : 兵哉のおじいさんが二代目で、戦争から帰ってきてから電線のがいし※2を作っていた。それでは物足らなくなって、義理の兄と共同で窯焼きを始めました。考え方の違いからバラバラになったけど、二代目は「やっぱり良いものを作りたい」ということで薄い磁器を作るようになりました。中には献上品もあって、ガラス板の上に器を乗せてガタついたらダメというような繊細なものづくりをしていましたよ。その後から大手が磁器を大量生産するようになって、うちでは太刀打ちできなくなる。それで三代目である私の主人が土ものを始めました。
平子 : 嫁いだ時は磁器を作っていた。三代目で主体的に土ものに変えたわけですね。
喜和子 : 磁器も、本当に手間をかけてやっていました。ダミ筆※3で絵付けして、呉須(ごす)※4で判子を押して、そういう手間は昔から惜しまない。でも磁器の売上がガタンと落ちたから、もうこれはダメだと思いました。
平子 : 亡くなられた三代目の兵衛さんは、ものづくりが好きでしたよね。作って表現することが生きがいだったんですか。
喜和子 : 仕事中でもパッとひらめいたら作り始めて……常に何かが頭の中にあって見本ができていましたね。
平子 : そういったアイデアは何からインプットされていたんですか?
喜和子 : いつも本屋に行って、雑誌や料理の本を見ていました。あとは東京や京都に行って、雑誌に載っていたギャラリーを全部回る。あの頃は手描きでメモをする時代だから、電話をかけても場所が見つからないこともありましたよ。
平子 : いま兵山窯さんで取引している商社はどれくらいですか?
喜和子 : 細かいところまで含めると100社くらい。だいたいは30から40社ぐらいは安定して取引がありますね。
平子 : 1社に依存するよりも健全ですよね。
喜和子 : うちが磁器を作っていた頃は取引先が多治見に1社、駄知に1社だけでした。
平子 : この業界は変化が早いですけど、やきものの景気が良かった時代は兵山窯さんのある駄知は豊かな地域でしたよね。
喜和子 : そう、駄知だけで映画館が2軒あって、パチンコ屋も何軒もあった。ゴルフの練習場も、駄知線という電車も走っていたね。今じゃ考えられない。子どもたちがみんな出ていっちゃうから人口が減っていくばかり。
平子 : 駄知に限らず、窯元や商社も続けていくことが簡単ではない時代になりました。原料の課題も抱えていますし……兵山窯さんで人気の錆かいらぎの原料も残りわずか。
喜和子 : もう毎回、原料屋さんに状況を聞くのが怖い。
兵山窯の錆かいらぎは、失敗から生まれた偶然の産物なんですよね?
喜和子 : そう、20年くらい前かな。呉須で失敗した絵を消そうと思って化粧土をかけたけど、そのまま色が出てしまった。それを試しに焼いてみたら「いけるんじゃないか」ってひらめいた。
そこで試しに焼かなかったら錆かいらぎの表情には出合えなかった。しかも、手間がかかることが目に見えているのに商品化したという挑戦があってこそ。
喜和子 : だから、錆かいらぎはうちが最初。
長山 : 錆かいらぎは作り始めた頃から人気だったんですか?
喜和子 : 最初にこれを見た人たちからは「こんなん売れる?」と言われましたよ。でも、やっぱり若い人の感性って違う。徐々に人気が出て、気付けば錆かいらぎの注文ばっかり。笑
平子 : 我々も、気付いたらどんどん錆かいらぎの発注が増えて……。
喜和子 : 最初は茶碗と湯呑みをやっていたくらいだけど、皆さんの評判が良いから小さいものから大きい物まで増えて、もう今は何でもできますよ。笑
長山 : バイヤーさんからは頻繁に「この形状で錆かいらぎはできますか?」と聞かれますね。
※2 がいし……配電線や発電所などの電線を支え絶縁する磁器製の器具
※3 ダミ……下絵付の技法。素焼きしたものに輪郭を描き、ダミ筆と呼ばれる筆に絵具を含ませて塗り潰す
※4 呉須(ごす)……古くから染付に用いる酸化コバルトの顔料。焼くと藍色になる
たっぷりな座談会】
親から子へ 背中で受け継ぐものづくり
四代目である兵哉さんは、三代目のお父様とものづくりの話はしていたんですか?
兵哉 : ……ほとんどしなかったですね。背中は見ていました。
喜和子 : 親子2人でやっていても全然しゃべらないですもん。
兵哉 : 基本的な技術は教えてもらっていたけど会話はなかったかな。父親の共通の趣味が釣りだったけど、一緒に行っても何にも話さない。なのに二人で、泊まりがけで釣りに行ったこともありましたね。
平子 : すてきなエピソード。
長山 : 兵哉さんは、ずっと昔から「自分が兵山窯を継ぐ」と考えていたんですか?
兵哉 : 親から言われてはないし、やりたいと思ったわけじゃないですけど継ぐものだって考えていましたね。高校は、この仕事と関係する多治見工業のデザイン科を選びました。短大では日本画を学んで、セラテクノ土岐の陶磁器試験場へ1年通って、22歳でここに入りました。
平子 : お母さんは、息子さんに継いでほしいと思っていたんですか?
喜和子 : まぁ……そうでしょうね。次男の泰宏まで継いじゃって。兄弟2人ともそれぞれ新しいサンプルを作っていますよ。あとは兵哉の嫁も。この丸紋のデザインもそうだね。
平子 : 最高じゃないですか! ご兄弟とともに奥様・眞由さんと……3人のクリエイターがいるんですね。
兵哉 : 彼女は多治見工業の専攻科にも通っていて絵も描けますし、第一線でものづくりをしています。
平子 : 3人の娘さんの子育てをしながら作陶もされていて本当にすごい。お子さんたちにも跡を継いでほしいという思いはあるんですか?
兵哉 : ぼくは、あまりピンとこないですね。
羽柴眞由(以下、眞由) : 一番上、6年生の子はやりたいって言ってくれています。仕事も少し手伝ってくれて、モロ板を担いで運んでくれたり。うれしいですね。
ものづくりをする上でお父様はインプットを欠かさなかったとお聞きしましたが、兵哉さん、眞由さんはいかがですか?
兵哉 : 今はスマホからかなりの情報が入る時代ですもんね。あとは器に限らず、服の柄でも何でもデザインは貪欲に見ています。自分も本を買ったりとか店も見に行ったり……父親と同じですね。
眞由 : 私も同じような感じですね。あとは、雑貨屋さんを見て「こんな感じの場所に並べてもらえたらいいな」と考えながら作っていますね。
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もう作ることのできない「磁器」から伝わるもの
6月18日(土)からPRODUCTS STOREで「yield展」が始まります。ユープロダクツが多治見の飲食店benとともに「世に出ることのなかったもの」を取り上げる企画ですが、今回は兵山窯が約40年前に作っていた磁器を展示販売することになりました。
長山 : 私たちが工房見学させていただいた際、片隅に積み上げられていた磁器を見つけたことがきっかけでした。この時はどんな気持ちでしたか?
喜和子 : びっくりしたよね、まさかだったもん。当時の磁器はだいぶ捨てたけどギリギリ残っていた。……でもやっぱり、捨てるのがもったいないとは思っていた。あんな薄いもの、手間がかかることはもうできない。
兵山窯さんを「土ものを作る窯元」として知る人からすると、昔に作っていた磁器を見ると違いに驚かれるかもしれませんね。
喜和子 : そんなこと、みんな全然知らないですよね。私が嫁いだのが1975年。そのときは磁器ばっかりで、私もダミ筆で絵付けをして、表はやれないから裏に描いていました。
長山 : 磁器が売れなくなったのは時代の影響も大きかったですか?
喜和子 : 時代というよりも……大手がトンネル窯で大量生産しているのに、うちみたいに手間をかけていたら値段で勝てない。磁器は鉄粉やピンホールの細かい傷でもすぐはねられるから。
平子 : そこから土ものに移るのはすごい決断だったと思う。もう少し遅れていたらダメージはもっと大きかったですよね。
喜和子 : そうでしょうね。土ものに移行する間に、磁器に呉須を入れたりして練り込みもやっていた。でも、それも手間がかかるだけだから1年くらいでやめましたね。磁器にレース生地をあてて、くぼんだところに釉薬を入れて浮き上がらせたり。磁器から土ものまでの間に、いろいろ試しましたよ。
長山 : 機材や窯は変わらなかったんですか?
喜和子 : それは変わらなかったね。土ものが売れるようになって、少しずつ売上が伸びて安定したから夫の代から会社の形態にしました。その頃には全て土ものに変わっていました。
平子 : お父さんから引き継いで、ご兄弟でやっていくにあたって今後のイメージはありますか?
兵哉 : いやもう、現状維持で……目の前のことでいっぱいです。
目の前のものと新しいものを作りながら、手を動かすことが全てなんですね。
兵哉 : 本当にそう。作るのみですよ。
平子 : 誠実にものづくりを続けていることが、ものすごい価値だからこそ。
兵哉 : 僕らは、やっぱり作らないと始まらない。じゃんじゃんがむしゃらにいろんなものを作ることが仕事なので。本当は先を見ないかんですけど、なかなかそこまでの余裕がない。
新しいものを作り続けることはモチベーションが必要。「作ること=仕事」とはいえ手を動かしているだけで自然とできるものではないですよね。
兵哉 : そうですね、プレッシャーでもありますけどね。
平子 : 世の中に自分が良いと思ったものを問うのは、裸の自分を見せるような感覚じゃないですか。ぼくのメンタリティではとても耐えられない……悪いと言われた瞬間にへこむ気がする。
兵哉 : それはやっぱりありますね。これはダメなのか……って落ち込みますよ。
平子 : でも、売れることが全てでもない。見る目のある人に見つけてもらっていないっていう感覚もあるじゃないですか。
兵哉 : いや、それは言い訳な気がします!
平子 : すごい……真摯!
兵哉 : 何も知らない人にも売れてほしいじゃないですか。
錆かいらぎのように、ヒット作を狙ってつくったわけじゃないけれど人気になるパターンもありますよね。
平子 : それも偶然とはいえ、トライし続けた結果ですよね。
兵哉 : 一昔前と違って、今は手間のかかることが当たり前になっている。いつもより手間をかけずにやったらどうかと思って世に出しても、それは売れないですね。
平子 : 手間は、消費者に伝わるものでしょうか?
兵哉 : たとえば「しのぎ」の器も工程を知らない人からしたら、手で彫っているかどうかも分からないじゃないですか。でも結果として、手間をかけて手で丁寧につくったものが世に出ていく。ということは、伝わるのかなって。やっぱり手間をかけないと、という思いがある。
消費者側からは見えない手間ばかり。でも、それが選ばれるというのは不思議なものだなと思います。
平子 : 世の中も捨てたもんじゃないなって僕はいつも思う。ちゃんと伝わっている。明るい未来が感じられる。
長山 : 接客中に「手彫りなんです」とお伝えするとびっくりされます。手仕事の商品は表情が違うのでお客さま自身が選んだ楽しさとか、自分のお気に入りを見つけたうれしさが記憶に残るし、そういうお客さまがリピーターになってくださっています。手間をお伝えするだけで捉え方は変わりますね。
平子 : 全国の窯元を回るバイヤーの中には、兵山窯の器を家で使って気に入って、訪問されるたびに買っていく人もいるんですよね。兵山窯には脈々と受け継がれてきたものづくりのDNAが宿っているからでしょうね。
最後になりますが、4代目としての目標はありますか?
兵哉 : 今やっていることがちゃんと結果として出ているので、それをこれからも続けていくことが大事。時代に合ったものを作れるようにと考えています。
平子 : 兵山窯の名前がもっと知られてほしいという思いはありますか?
兵哉 : 「兵山窯の器だから」と買ってもらえたり、リピーターになっていただけるのは当然うれしいです。でも名前より、ものを見て「いいな」と思ってほしい気持ちが強いですね。