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PRODUCTS STORY

玉木酒店 × PRODUCTS STORE たっぷりな座談会

01 玉木酒店を受け継ぎ、人と人の縁がつながるまで
02 まちの情緒が残る「商店街」で生きていくこと
03 コロナ禍で手放したもの 新たに手にしたスペースとは
04 包容力のある多治見のまちに、いろんなポジションの人が集う
05 新町ビルとの往復書簡

<今回の参加者>
玉木酒店 玉木秀典、陽子
株式会社ユープロダクツ 代表取締役 平子宗介
PRODUCTS STORE 店長 長山晶子
インタビュアー・編集者 笹田理恵
撮影 加藤美岬

<場所>
玉木酒店(岐阜県多治見市本町4-46)


2025年10月でPRODUCTS STOREは5周年を迎えます。1周年では「私たちが支えられている多治見の店を巡り、つながりを感じてほしい」という思いから「PRODUCTS STOREが多治見をひかえめにジャックする2日間」と掲げてコラボイベントを行いました。

PRODUCTS STORE 1周年イベントレポート
https://news.products-store.jp/products-story/1st-event-report/

5周年を迎えるにあたって、まちの皆さんをより知ってもらうべく1周年の参加店と座談会を行いました。1店舗目は、多治見のながせ商店街に店を構える「玉木酒店」です。
玉木酒店の店主・秀典さんと陽子さんに、店の成り立ちやまちの歴史と思い、コロナ禍での転機について伺いました。最後には、これからの5年、その先の未来に向かった楽しい展望もこぼれました。人が織りなす不思議な縁のエピソードがてんこ盛りの座談会をお届けします。

【玉木酒店 × PRODUCTS STORE たっぷりな座談会】
01

玉木酒店を受け継ぎ、人と人の縁がつながるまで

平子 : まず、秀典さんが玉木酒店の4代目として生まれて、家業を継いだ経緯を伺いたいです。宿命を受け入れながら自分の代でアップデートすることは、すごく価値のあることだと思っています。家業を継ぐこと自体はずっと頭にあったんですか?

秀典 : ここで育ったので、やらなきゃいけないという意識はありました。ただサッカーがやりたくて地元の高校に入って、周りが就職先を探し始めた時に僕もどこかの販売へ進みたいと思い始めたんです。でも、もうその時にはすでに親父からレールを用意されていて、高校3年の夏には卒業後に大阪の酒屋さんへ修行に行くことに決まっていました。

どのくらい修行に行かれていたんですか?

秀典 : 修行は3年間の予定でした。でも、2年半のタイミングで親父ががんになって店をやらなきゃいけなくなった。後ろ髪を引かれつつも、無理やり引っ張られて帰って来ました。僕は21歳で店に入って、ずっと酒屋しかやっていないので5代目の鼓太郎にはいろんな業種を見てほしいと思いましたね。同業者の中には大手企業の広報をやっていた方が実家に戻って面白い酒屋やっている人もいる。息子にはいろんな視点で見られるようにいてほしい。

秀典さんと陽子さんは、どちらで出会ったんですか?

陽子 : 私が同じ高校の1個下で学生時代は何の接点もなかったんですけれど、ある時に手紙を書きました。

長山 : 学生時代からのお付き合いじゃなかったんですか?

陽子 : 私が 24歳の時にたまたま実家に帰って、たまたま開いた卒業名簿で「この先輩いたな~」と目に留まった。いつも楽しそうな人という記憶があったので自分の手帳に住所を書き残しました。1年後にその手帳を捨てようと開いたら住所が書いてあって。

平子 : ドラマチックですね!

陽子 : 楽しくて、いつも笑っている先輩というイメージだったんです。ちょうど嫌なことがあったタイミングだったから、ダメ元で手紙を書いてみようと思い切って。清水の舞台から飛び降りるような気持ちでした。笑

平子 : 「お元気ですか」みたいな手紙ですか?

陽子 : 「初めまして」からですね。とにかく人気者のイメージだったんです。楽しそうだから仲間に入りたい気持ちがあったと思うんですよ。その手紙をきっかけにお付き合いして結婚しました。

秀典 : 陽子さんと結婚して、酒屋との接点がなかった人が入ってきて、「それって非常識じゃない?」みたいな視点が出てくる。酒屋の常識の中でしか生きていなかった自分にとって当たり前だったことが、当たり前じゃないと気付かされました。

【玉木酒店 × PRODUCTS STORE たっぷりな座談会】
02

まちの情緒が残る「商店街」で生きていくこと

秀典さんは、幼い頃からお酒を飲む大人たちを身近で見て来たんですよね。

秀典 : 商店街の人も出入りしていたし、立ち飲みもしていたので日常でした。市内に大きな製陶所もあって、駅まで帰る途中に立ち寄って飲む人も多かった。当時は、ながせ商店街に酒屋が5軒あったんです。いまはうちの1軒だけ。

平子 : 景色が違いますね。まちの中に、それだけの需要があったんですね。

秀典 : 多治見駅の近くに手羽先のおいしい鳥屋さんがあった。うちはおつまみがなかったけれど、駅から帰ってくるおっちゃんからおつまみの手羽先をもらったり。笑

長山 : いい思い出。笑 陽子さんは玉木酒店に嫁いで大変な面はありましたか?

陽子 : 私、元々は人嫌いだったんですよ。気を使って相手に合わせなきゃとずっと思っていたので。でも、楽しい仲間に入れてもらえたらという気持ちがあってお嫁に来ているのでバランスが取れているんじゃないですか。自分がワイワイ楽しくするよりも、後ろについて楽しかったらうれしいんです。

玉木酒店に人が回遊するかたちは、現在に引き継がれています。ここには、まちの良い情緒が脈々と受け継がれているような。

秀典 : この辺りはまだ残っているね。息子たちもご近所で育ててもらったようなもんだし。僕もすぐ近くのカメラ屋さんにお世話になっていました。

陽子 : 息子たちは、ながせ商店街にある時計店でご飯を食べて、お風呂も入って帰ってくる。うちの子は3人ともそうでしたね。

長山 : お二人が忙しかったからですか?

陽子 : そうだね。あとは昔に比べて子どもが少なくなってきたせいか、皆さんが面倒を見たいからと言ってくれていて。うちの子みんな学校帰りにトイレだけ借りに行ったりね。笑

秀典 : うちは目の前なのにね。帰ってこればいいのに寄るんだよ。笑

長山 : 2代にわたって、商店街で育ててもらったんですね。

秀典 : いまも子どもたちには「可愛がられる人間になりなさい」と言っている。やっぱり可愛がってもらっていると人懐っこさが出てくる。

陽子 : あとは、おじさんたちが夜な夜なずっと飲んでいたね。義理の母もそれに付き合って、寝ながらずっとテレビを見ていたり。

秀典 : 昔から人が出入りしている場所だったので、それが当たり前の風景。ながせ商店街の中でも、店のある4丁目は特に昔ながらの下町のような雰囲気が強い気はする。

平子 : 姿かたちを変えて、いまも人が集う場所になっていますね。

昔は、玉木酒店を移転する話もあったんですよね。

秀典 : あれは2009年ぐらい。ここが借地の借家だったのもあって、商店街から出ようと考えていました。

陽子 : あの頃は、ここに何の未練もなかったね。

秀典 : 角冨玉木酒店の創業者がいらっしゃって、僕のおじいちゃんがその後に入ったまま借りていました。そのまま続けても僕らには何も残らないし家を持ちたいと思った。けれど、この土地を売ってもらえなかったんです。当時は、創業者の方からすれば僕らが頼りなかっただろうし、本意がちゃんと伝わらなかったと思う。だから、多治見市内の虎渓山に移転する予定で土地も決めて、ハンコを押すだけだったんですよ。

長山 : そこまで具体的に決まっていたんですね。

秀典 : そこの手続きが1ヶ月程かかっている間に、コロコロと話が変わって、ここを買う流れになった。

平子 : 急展開 !

秀典 : そこから古民家再生の建築家に家の状態を見てもらったんですけれど、「これは無理です」「家や土蔵も壊してください」としか言われなかった。

陽子 : 「ものすごいお金がかかる」としか言われなかったから諦めていたら、たまたま来ていたお客さんから古民家を移築している人がいると聞いて、移転先の虎渓山の店舗を設計してもらおうと紹介してもらったんです。その方が「いまの暮らしを見せてほしい」とここを訪れたら「なぜ、この宝の山を捨てるんだ」と言って。僕なら同じ金額でここを直せるよって。

秀典 : しかも「こんな宝の山を捨てて虎渓山に移るなら、逆に僕は手を引く」と言われた。

陽子 : おばあちゃんが泣いて喜んだよね。

平子 : そこで移転されていたら、ながせ商店街に玉木さんはなかったんですね。

【玉木酒店 × PRODUCTS STORE たっぷりな座談会】
03

コロナ禍で手放したもの 新たに手にしたスペースとは

多治見のまちや商店街を盛り上げようと、15年ほど前からイベントや展示などを続けてこられた玉木さん夫妻。当時は、何をやるにしても仲間が少なくて苦労も多かったのでは。

秀典 : 多治見の良いところなのか悪いところなのか、準備期間がむちゃくちゃ短くて。笑 3分の1くらいの時間で全部やりきれー !って。

陽子 : やると決めているのに全然動かないから、いつ何をやるの?という状態。蓋を開けたらギリギリで、みんなが巻き込まれてヘトヘトに。最終的には、外のことばかりやっていても家業がボロボロになっていくから、とりあえず足元を固めようと。うちらは自分たちの商売をちゃんとやっていかないと、人の心配しているところじゃないよねって。

秀典 : 結局は、ずっと続けてきたからやり続けるという意識でした。次をやらなきゃ、もう次を……という感じでやっていましたね。僕の中でも続けることに意義があると思っていたので、だから何を言われようとやり続けてきた。ただコロナ禍になったことで、コロナを理由にやめられる!と思った。笑

平子 : コロナ禍が「やめるチャンス」だったんですね。

秀典 : 一旦ここで区切れる。区切ったら、みんなを巻き込まなくても自分のところで何かしようと思っていました。続けてきたものに区切りをつける理由が欲しかったのかもしれない。だからコロナ禍は、いい転機でした。

酒販業というビジネスモデルからすれば、コロナ禍で業務用のニーズが一気に失われました。かなり苦労されたんじゃないですか?

秀典 : 本当に大変でしたね。でも、そのタイミングで2階のギャラリースペース「kakurega」をつくることにしました。

平子 : そこも玉木さんらしい。状況を逆手にとってポジティブに変換していく。

秀典 : もう必死だったんですよ。僕たちがやれることは何なのか。実際、国から給付金をもらったりもしていたから、そのまま店の経営を回すだけで終わってしまうのは違うと思った。「アフターコロナに残せるもの」としてスペースを作ったのは、すごく大きかった気がします。

長山 : ギャラリースペースが生まれたおかげで、玉木酒店で行われる「たまき杯」や「伝手展」など展示の規模や幅も広がっています。

【玉木酒店 × PRODUCTS STORE たっぷりな座談会】
04

包容力のある多治見のまちに、いろんなポジションの人が集う

平子 : 多治見は、コロナ禍以前の様相からずいぶん変化したように感じます。いまの多治見になったのは玉木さんの存在が大きいと思うんです。まちの「包容力」が魅力の根源にあると思うと、その源流がここにある気がして。多治見の人の良さの源流みたいな存在。

秀典 : そういった意味では周りにいろんな作家さんがいたし、常に「やりましょうよ」と関わってくれた人たちがいた。元々、僕らはやきものや美濃焼の魅力を感じていなかった。それが誇れるものだと、その人たちに教えてもらった。だから、周りの人に力を借りています。伴走してくれたからやれているだけ。

陽子 : この人たちのためならひと肌脱ぎたい、と思える人が周りにいてくれたしね。

秀典 : 前に向かって走れるだけで全然違う。PRODUCTS STOREさんが1周年で作ったマップのメンバーだけでもぐっと集約されている気がする。あの時「これ、何でもできるじゃん」って思ったもん。

平子 : 1周年の企画に参加してくださった8軒もそれぞれに哲学を持っているから、こちらもしっかりしていないとダメだという緊張感もある。玉木さんがすごいのは、玉木さんとの取り組みだとみんなが面白がってやれちゃう。玉木さんの包容力がすごいと思うんですよね。

秀典 : 包容力と言われると、こそばゆいですよね。自分が一番楽しんでいるだけなんで。笑

PRODUCTS STOREはオープンしてから5年が経ちました。コロナ禍でもあり、想像もつかない大きな変化があった5年間でした。コロナ禍を機に、まちに新しい取り組みが増えましたが、多治見のハブとしての玉木さんの存在感はむしろ増している印象です。コロナ禍以降、まちに仲間が増えたというのは大きな変化ですよね。

秀典 : 大きかったですね。逆にコロナ禍で一生懸命やろうという人が見えた。大変な状況でも楽しんでいる人たちが多治見にはいたと思う。新町ビルやPRODUCTS STORE、飲食店も面白い人たちがいっぱいいる。すごいメンツが揃っている気がします。よくぞ集まってくれたって感じですね。みんなが引き寄せてくれているからこそ。

長山 : しかも、それが途絶えることなくどんどん増えていくからすごい。

平子 : ここからの5年の話になると、それこそ息子さんの5代目にも関わってきますよね。店主を代替わりするタイミングは決めているんですか?

秀典 : いろいろ考えますね。だって、5年後だと僕は60歳ですから。代替わりは決めてないけれど、いろんな人は60歳で区切りをつくると思うので、その時に考えると思う。でも、いろいろな携わり方はあるはず。

将来、他にもやってみたいこと、挑戦したいことはありますか?

秀典 : 昔、お客さんだった居酒屋さんに、いつもカウンターの一番端っこで「おぅ」って言うだけのおじいちゃんがいたの。僕もその役をやりたい。笑

陽子 : そうそう、たまに料理を運んでくれたりするおじいちゃん。

秀典 : だから、最後は居酒屋をやりたいという憧れはあります。酒や器の話をしながらね。それは夢の話だけど、こうやって話していると何とかなるかもしれない。笑

長山 : それはやってほしい!

秀典 : 多治見って昔からサロン的な場所があった。そこには陶芸家の先生や商社さんなど、いろんな人が来ていた。店で働く若手の陶芸家と先生や陶器商とつなげる機能もあった。そういう人が集まる場所ができたら、それに携われたらいいなとは思います。

平子 : 多治見のまちに必要な機能ですよね。

秀典 : あとは、ながせ商店街の空き物件を年に1日か2日だけでもシャッターを開けられるといいな。1年に1回だけが2回、3回……と増えていったらといい。大家さんも賑わいを見たら「うちも貸せるのかも」と思えるはず。1日ぐらいならいいよって言ってくれそうじゃないですか。

平子 : 玉木さんだからできる取り組みですよね。まだまだ空き物件が多いですが、商店街に根ざしている人が動くと進みそうです。

平子 : 長山さんのように、外の地域から多治見が面白そうに見えて、他の産地より美濃の産業を面白そうだと思って移住してくれたことはすごく価値があると思っています。今後、外から見たときの印象がどんどん面白くなっていくと、もっと人も集まるはず。大事なことだと思います。

秀典 : 面白い人が集まってくればいい。変態が集まってくるまち・多治見。笑

陽子 : 変態が普通になればいい。笑

秀典 : まだまだ人は増えていくと思います。やる人たち、動く人たちが。

平子 : そうあってほしいです。

秀典 : サッカーで例えると、本田圭佑というスーパースターがいた。でも、たとえフィールドプレーヤーに本田圭佑が11人いても絶対勝てない。ベンチサイドでベンチワークしている人も含めて、いろんな選手がいるからこそ勝てる。そう思うと多治見にもいろんなポジションのプレイヤーがいる。ここぞという時に確実に決めるストライカーもいれば、汗をかくボランチもいる。

長山 : たしかに!

秀典 : いまの多治見は、すごくいいチームになっている気がしています。そこには世代交代もある。サッカーで言えばアンダー22のような存在で新しいチームを作っていって、融合していくと層が厚くなるし深みが出てきて面白いよね。だから、僕らもオールドプレーヤーじゃないですけど、ずっと現役でいたい。笑

生涯現役宣言ですね!

秀典 : 80歳以上のシニアサッカーリーグがあって、90代の人もサッカーをやっているんですよ。年齢が上がると金色や紫色のパンツを履くんです。タックル禁止というルールもありながら、サッカーの試合が成り立っているんです。そういうチーム作りが多治見でできていくと面白いでしょうね。いろんなところでみんなが人を集めて、それを融合していくような関わりができたらいいなと思いますね。

【玉木酒店 × PRODUCTS STORE たっぷりな座談会】
05

新町ビルとの往復書簡

新町ビル(花山さん)

多治見に来てくれた人には「ぜひ会ってほしいな」と思う人が3人いまして、そのうちのひとりが玉木さん。
やさしくて、面白くて、信頼できる大人。
20代後半で僕が「よそ者」として多治見に来た頃から、いろんな場面でお世話になってきました。
今だって配達中の玉木さんとすれ違って顔を見るだけで、なんか元気になるし、こういう人に対して恥ずかしくないようにこのまちで生きていきたいなと思ってます。
玉木さんがいる多治見に来られて良かった。
皆さんも多治見来たならまずは玉木酒店へ。

新町ビル(水野さん)

玉木さん
多治見の酒屋、多治見の相談役、多治見の兄貴、多治見の父、多治見の音楽好き、多治見のパリピ、多治見のサッカー小僧、多治見の器好き、ながせ商店街の歴史ある酒屋の親父の玉木さん。商店街はもちろん街に欠かすことが出来ない顔役の一人。こうして地元の人が土を耕し根を張り幹を太くし葉を一緒に広げてくれるからこそ自分たちはいつも楽しく明るく暮らすことが出来ます。自分たちをいつも照らしてくれる太陽のような存在である頭、否、お人柄。これからも一緒に街をもっと面白くしていきたいし、これまでの繋がりを大切にしながら新たな繋がりを一緒になって楽しんでいきたい。奥さんや息子さん、地元の陶芸作家さんたち、それぞれの個性が玉木酒店を通じて羽ばたいていく。自分たちはまだまだですが、自分たちらしく根を張ります。これからも頼りにしてます。